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邪馬台国の人々は、マジで占いを信じて卑弥呼に従っていたのか?

3行まとめ

  • 卑弥呼の占い(鬼道)は、単なる迷信ではなく、政治・祭祀・社会秩序を維持するための国家システムそのものだった。
  • 考古学的な証拠は、占いが権力者によって独占された特別な儀式であったことを示している。
  • 社会心理学的に見ても、不確実な時代を生き抜くために占いに従うことは、人々にとって最も合理的な選択だった。

「信じるか、信じないか」ではなかった

「卑弥呼は鬼道をもって衆を惑わした」

中国の歴史書『魏志倭人伝』に残されたこの有名な一節。ここから、私たちはつい「卑弥呼は怪しげな占いで人々を騙していたのでは?」「当時の人は純粋に信じていたのかな?」といった疑問を抱きます。

実際のところ、邪馬台国の人々は、卑弥呼の占いをどう受け止めていたのでしょうか? 本気で信じていたのか、それとも内心「出鱈目だ」と思いつつも、空気を読んで従っていたのか?

この問いの答えは、タイムマシンでもない限り分かりません。しかし、現代の学問的なアプローチを組み合わせることで、その実像に迫ることは可能です。

この記事では、「考古学」「文献史学」「比較文化」「社会心理学」 という4つの視点から、この壮大な謎を解き明かしていきます。

先に結論を言うと、これは「信じる/信じない」という単純な二元論で語れる問題ではありませんでした。当時の人々にとって、占いは社会を動かすOSそのものだったのです。


1. 考古学的アプローチ - 「モノ」が語る真実

まず、当時の人々が残した「モノ」から、社会における占いの位置付けを探ってみましょう。

占いの道具 - 卜骨と鏡

卑弥呼の時代(弥生時代後期〜古墳時代前期)の遺跡からは、占い行為の直接的な証拠が見つかっています。

  • 卜骨(ぼっこつ): 鹿の骨などを焼き、そのひび割れで吉凶を占うもの。『魏志倭人伝』の記述とも一致する遺物が、壱岐や福岡などの遺跡で発見されており、当時、大陸から伝わった占術が実際に行われていたことを示しています。これらが日常のゴミとは別に、特別な場所から出土することは、占いが神聖な儀式であったことを物語っています。

  • 銅鏡: 当時の鏡は祭祀の道具であり、権威の象徴でした。特に、卑弥-呼が魏から授かったとされる三角縁神獣鏡は、近畿地方の有力者の墓から多数出土します。鏡が特定の権力者の墓に集中している事実は、祭祀(占い)を執り行う力が、権力と固く結びついていたことを示唆します。

聖なる空間 - 環濠集落と纏向遺跡

集落の構造も、占いの重要性を教えてくれます。

  • 環濠集落(かんごうしゅうらく): 佐賀県の吉野ヶ里遺跡に代表されるように、弥生時代の集落は濠で囲まれ、中心部には大型の建物(祭殿)が建てられていました。祭祀を行う「聖なるエリア」と人々が暮らす「俗なるエリア」が明確に区別されていたことは、祭祀が社会の根幹をなす特別な行為であった証拠です。

  • 纏向(まきむく)遺跡: 奈良県にある邪馬台国の有力候補地です。ここからは、日本各地の土器が出土しており、広範囲の勢力が交流する一大拠点だったことがわかります。武力統一の痕跡が少ないことから、卑弥呼の祭祀的な権威(占い)によって、各地の勢力が連合していた「ヤマト王権」の始まりの姿ではないか、とも考えられています。もしそうなら、占いは政治そのものだったと言えます。

考古学からの結論: 物的な証拠は、占いが社会の意思決定の中枢にあり、権力者によって独占されていたことを示しています。社会全体が占いに高い価値を置いていたことは間違いなく、公然と疑えるような雰囲気ではなかったでしょう。


2. 文献史学的アプローチ - 「記録」を読み解く

次に、文字による記録から、当時の人々が占いをどう見ていたかを探ります。

『魏志倭人伝』の記述 - 「鬼道」と「惑わす」

3世紀の日本の様子を伝える唯一の同時代史料です。

「事鬼道、能惑衆」 (鬼道に事(つか)え、能(よ)く衆を惑わす)

  • 「鬼道」とは?: 特定の宗教名ではなく、祖霊や自然神と交信する、当時の中国から見た土着の呪術・シャーマニズム全般を指す言葉です。

  • 「惑わす」の本当の意味: これは「騙す」という否定的な意味だけではありません。自分たちの価値観(儒教的な徳治)とは異なる方法で民衆が統治されていることへの、中国側の驚きや異文化への畏怖を表した表現と解釈するのが中立的です。むしろ、その呪術的なカリスマによって、実際に社会秩序が保たれている事実を客観的に記したと考えるべきでしょう。

また、卑弥呼が宮殿の奥に籠り、ほとんど人に姿を見せなかったという記述も重要です。俗世から隔絶されることで、その神聖性と権威はさらに高まりました。占いの結果は特定の男性を通じて伝えられ、人々が卑弥呼本人を直接見て、その能力を疑う機会は構造的に存在しなかったのです。

後代の史書 - 神託を疑うのはタブー

8世紀に成立した『古事記』『日本書紀』もヒントを与えてくれます。

  • 神功皇后の逸話: 『日本書紀』には、神功皇后が神がかりとなり、神のお告げを伝えた際、それを疑った夫の仲哀天皇が急死してしまった、という物語があります。

この物語は、神託(=シャーマンの言葉)を疑うことは、死に値するほどのタブーであったという、古代日本の価値観を色濃く反映しています。為政者ですら神のお告げに逆らえないのなら、一般の民衆がそれを「出鱈目だ」と考えることは、ほとんど不可能だったでしょう。

文献史学からの結論: 卑弥呼は呪術的なカリスマによって国を治めており、その権威は巧みな演出によって保たれていました。また、神託を疑うこと自体が社会的なタブーであり、人々は占いに従う以外の選択肢を想定していなかった可能性が高いです。


3. 比較文化アプローチ - 「他の社会」と比べてみる

邪馬台国を、他の社会の似たような現象と比較してみましょう。

世界に見られるシャーマニズム

シャーマン(祈祷師)が社会的に重要な役割を果たす例は、世界中に見られます。

  • 沖縄のユタ・ノロ: 近代まで沖縄では、ノロと呼ばれる公的な女性神官が国家の祭祀を司り、ユタという民間のシャーマンが個人の悩みに応えてきました。ここでも、政治や生活の重要な局面で、シャーマンの判断を仰ぐことが社会の「手続き」として組み込まれていました。

  • アイヌのトゥスクル: アイヌ社会にも、病気の原因究明や未来予知を行うトゥスクルというシャーマンがいました。彼らは世襲ではなく、その能力によって認められた存在でした。卑弥-呼がその能力によって女王に選ばれたという記述と共通しており、指導者の正統性が霊的な能力に基づいていた社会のあり方を示しています。

古代ギリシャの神託 - 支配層と民衆の「温度差」

古代ギリシャのデルフォイの神託は、国家の戦争などを左右するほどの権威を持っていました。しかし、為政者たちは神託を鵜呑みにせず、自分たちの政策に都合の良いように解釈し、民衆を納得させるための権威として利用していた側面が研究でわかっています。

この事例は、邪馬台国でも支配者層と一般民衆との間に、占いに対する認識の差があった可能性を示唆します。卑弥呼の側近たちは、彼女の神託を現実の政治に合わせて「翻訳」する、冷静な政治家だったかもしれません。しかし、民衆にとっては、その言葉こそが疑いようのない神の言葉として受け止められていたでしょう。

比較文化からの結論: 卑弥呼の統治は特殊なものではなく、人類社会に普遍的に見られる形態でした。占いは社会を機能させるための重要なシステムであり、その中で支配者層と民衆とでは、信仰に対する温度差があった可能性も考えられます。


4. 社会心理学的アプローチ - 「人間の心」から考える

最後に、時代を超えた人間の心の働きから、この問題を考えてみます。

不確実性への恐怖

弥生時代は、気候変動や集団間の争いが激しい、非常に不安定な時代でした。

  • 占いは「心の安全装置」: 明日の食料も、自身の生命も保証されない極度のストレス下で、占いは「次に何をすべきか」という指針を与え、人々の不安を和らげる唯一の羅針盤でした。「神のお告げに従えば大丈夫」と信じることは、心の平穏を保つための極めて合理的な手段だったのです。

権威への服従と「空気」の力

人間は、集団の中で生きるために、特定の心理的傾向を持っています。

  • 権威への服従: 人は権威を持つ者の指示に無批判に従いやすい傾向があります(ミルグラム実験)。神聖な空間で儀式を行う卑弥-呼は絶対的な権威であり、一個人がそれに異を唱えるのは心理的に極めて困難でした。

  • 同調圧力: 人は集団から孤立することを恐れ、周りの意見に合わせようとします(アッシュの同調実験)。もし集落の全員が占いを信じ、それに基づいて行動しているなら、たとえ内心で疑問に思っても、それを口にすることは「村八分」を意味します。信じている「ふり」をすることこそが、最適な生存戦略だったのです。

社会心理学からの結論: 人間の普遍的な心理から見ると、当時の人々が占いを信じ、従ったことには強い合理性がありました。それは、厳しい環境を生き抜き、社会の秩序を維持するための、非常に現実的で効果的な「社会システム」だったのです。


【結論】占いは社会のOSだった

4つのアプローチを総合すると、最初の問いへの答えが見えてきます。

「卑弥呼の時代、人は本気で占い師を信じて従っていたのか、それとも内心では疑っていたのか?」

この問いへの答えは、「当時の社会は、占いを『信じて従う』ことが圧倒的な規範であり、現代的な意味で『疑う』という選択肢がほぼ存在しなかった」 となります。

それは「盲目的な信仰」というより、占いが、現代の我々にとっての「科学」「法律」「経済」のように、世界を理解し、社会を動かすための自明の前提、つまり社会のOSのようなものだった、と考えるのが最も実態に近いでしょう。

ほとんどの人々にとって、それは信じるか疑うかの対象ですらなく、生活の一部であり、現実そのものでした。その中で、為政者はそれを統治のツールとして巧みに利用し、ごく一部の個人が抱いたであろう素朴な疑問は、社会の大きなうねりの中に飲み込まれていった。

これが、今回の調査から導き出される、この壮大な謎に対する一つの結論です。